ハニワ部長

世界遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」をPRする堺市のキャラクター「ハニワ課長」が今年の8月に「部長」に昇任しました。

「ハニワ部長」は古墳群が所在する堺・羽曳野・藤井寺3市の職員有志と「ハニワ部」という宣伝班を結成し、堺だけではなく他の役所と連携することで古墳群の魅力を一層伝えていきたいと意気込んでいます。

ハニワ部長は古墳時代に生まれた約1600歳の独身男性という設定でスーツにネクタイ、ハニワのかぶり物という独特のスタイルなのですが、性格はシャイでひかえめ。

私はそんなシャイでひかえめなハニワ部長にPRという仕事が向いているのかと心配していました。

しかし、7月の世界遺産登録の快挙のあとはフェイスブックの「いいね!」の数を4倍の2万件集め、マスキングテープしかない関連グッズを20種類以上に増やして販売するという積極的な活躍をみせています。

それはまさに一皮むけたというか焼き直されたというかワンランクアップしたハニワ部長の姿です。

堺市の永藤市長は「目標を達成したら局長に昇任。できなかったら課長に降格」と言明しており、ハニワ部長は「非常に厳しく、ありがたい言葉」と気を引き締めています。

ハニワ局長の誕生か、はたまた課長へ逆戻りか目が離せません。

飽きない商い

「高級料亭の料理も食べ続けると飽きる」が口癖だったセブンイレブンの鈴木敏文氏。

セブンイレブンは一時的なブームで終わる刺激の強い味より、あくまで万人に受ける味がテーマです。

その思想の底流には「決して奇をてらうようなことはしない。常に材料や製法を変えながらじわじわと売り上げを伸ばすことを追求する」という考え方があります。

更に消費者が気づかなくていいレベルで品質を改善しているといい、ロングセラーには改良の歴史があるのです。

又、カップヌードルやチキンラーメンでおなじみの日清食品の創業者安藤百福氏は「濃厚な味でおいしすぎると満足感がありすぎる。これでは当分リピートはない」と言い、おいしすぎなく少し余韻を残した味を目指し、再購入につながる商品を作り上げました。

確かにカップヌードルやチキンラーメンはしばらくすると又食べたくなる味です。

弊社の商品開発の方針も同じようなところがあります。

流行のデザインや色を過度にとり入れることはしません。お客様のライフスタイルに合ったデザインや色を考え、はきやすさをモットーに作ります。

流行のデザインや色はブームが去るとすぐに飽きられてしまうからです。

これからも「飽きない商い」を目指していきたいと思います。

国際福祉機器展

国際福祉機器展(HCR)はハンドメイドの自助具から最先端技術を活用した介護ロボット、福祉車両まで世界の福祉機器を一同に集めたアジア最大規模の国際展示会です。

第46回を迎える今年は9月25日から27日まで東京ビッグサイトで開かれ、3日間で105,675人の来場者がありました。

おしゃれな介護シューズを開発した弊社も初めて出展させていただきました。

シューズの名称も「サポートシューズ」から「100年シューズ」に変更し、デザインやカラーバリエーションを増やして臨みました。

周りの介護シューズよりもデザイン性、カラーバリエーションが豊富な点が来場者の目にとまり、大変好評でありました。

又、「100年シューズ」というネーミングも多くの方の興味をひきました。

「100年シューズ」のコンセプトは人生100年、おしゃれ心を忘れずにいきいきと過ごしてもらうためのシューズという思いで作りました。

だからデザインやカラーは通常のサロンドグレーのコレクションとほぼ同じです。

違う点は、かなり大きめの5E木型を使用している点、マジックテープを多用して着脱を便利にした点、厚みの違う2種類のカップインソールを標準装備してむくみ対策をした点です。

「100年シューズ」は弊社の展示会にも出品し、直営店やデパートの売場にも展開していく予定です。

ホテルイタリア軒

ホテルニューオータニのアソシエイトホテルの中で不思議な名前のホテルイタリア軒。

新潟に行く機会があったので泊まってみました。

クラシカルなヨーロッパ調の内装がとても素敵なホテルでした。

その名前の由来がすごいのです。

1874年の夏、開港で活気づく新潟にフランスの曲馬団の一行がやってきました。その中のイタリア人コック、ミリオーレは大けがをしてひとり新潟に取り残されてしまいました。

新潟で曲馬団に雇われていた権助とその娘おすいは、残されたミリオーレを親身になって介抱しました。

この話に感動した当時の県令 楠本正隆は200円という大金をポンと出してミリオーレに牛鍋屋を出すことをすすめました。

親身になって世話をしてくれる新潟の人たちとふれあい、心を動かされたミリオーレは新潟に残る決心をしました。

港町のハイカラな気風もあり、店は大繁盛しました。いつしかミリオーレはおすいと結ばれて夫婦となりました。

牛鍋だけでなく本格的な西洋料理も出すようになり、名前も「イタリア軒」となりました。

その後「イタリア軒」はホテルとして生まれ変わりました。

ホテルのレストランにはミリオーレが異国の地で一心に創り上げた「イタリア軒の味」が今も脈々と続いているのです。