2月24日は戦国の世に生き、果敢に天下一の絵師への道を切り拓いた長谷川等伯が亡くなった日です。
私は長谷川等伯が大好きです。
水墨画の最高峰と称えられる国宝 「松林図屏風」 等の彼の作品にも魅せられますが、一番興味深いのが彼の生き様です。
長谷川等伯は遅咲きの絵師です。
能登の七尾に生まれ、地元で仏画等を描いていたのですが、30歳代になって上洛し、本格的に絵師の活動をはじめました。
時は、信長から秀吉に変わる乱世で、絵の世界では室町時代から続く絵師の名門 狩野派の天才、狩野永徳が活躍していた頃です。
名門の出ではない一介の地方絵師、長谷川等伯が狩野永徳をもしのぐ地位を一代で築いたことはまさに絵筆で成しとげた下剋上といっても過言ではないでしょう。
狩野派のような盤石の地盤を築こうと等伯は奔走しますが、後継者 久蔵が急逝してしまいます。その後、久蔵の弟 宗宅を後継者として育てます。
時は流れ、天下は徳川家康の時代になり、等伯は宗宅を連れて江戸へ向かいます。
72歳という高齢を押してまで江戸へ向かった理由は、長谷川派を御用絵師として存続させたかったことに尽きると思います。
そして1610年2月24日、長谷川等伯は江戸で72歳の生涯を閉じました。
後継者 宗宅も翌年に亡くなり、長谷川一門が画壇で活躍することはありませんでしたが、長谷川等伯の絵画における造形的特質は確実に江戸絵画史に足跡を残しています。