先日、京都国立博物館で開催されている「長谷川等伯展」に行ってきました。
長谷川等伯が登場した時代は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と権力者が次々と
変わっていく激動の時代でありました。その中で地方から出てきた絵師が才能と人
脈を使い、どんどん出世していく様は痛快なジャパニーズドリームであったと思いま
す。
当時は狩野派とよばれるスーパーエリート集団が牛耳っておりました。中でも等伯と
4歳年下の狩野永徳は、若い頃からそのずば抜けた才能とグループの力で天才の
名をほしいままにしておりました。
等伯は33歳の時に一大決心をして絵師として大成するために地元の能登から京都に
移住してきました。しかしその後17年間はどこでどのように修行していたのかは不明
とされています。そして51歳の時に千利休のすすめで大徳寺三門の壁画を描き、一
躍狩野派を脅かす存在になったのです。
その翌年、御所対屋の障壁画制作をめぐり狩野永徳一門と対立し、狩野派の政治力
の前に排除させられてしまいます。しかしその1ヶ月後、狩野永徳が急死するのです。
遅咲き等伯の時代がやってきます。
豊臣秀吉の命をうけて祥雲寺障壁画に着手、長男 久蔵とともにすばらしい障壁画を
完成させて、大絶賛を受けました。長谷川派の時代が到来したと誰もが思ったことで
しょう。
しかし翌年、長谷川派の次世代リーダーの長男 久蔵が急死してしまうのです。享年
26歳、あまりにも若い天才絵師の死でした。
長谷川等伯はたぐいまれなる才能を持ち合わせて順調に出世していく人生でありまし
たが、一方で妻や子供に先立たれるという悲哀に満ちた一面もありました。
「仏涅槃図」や国宝「松林図屏風」等は、元々信仰心の厚い等伯が先立った親族への
鎮魂歌ような想いで描いたのではないかと思います。
等伯の死後、長谷川派は表舞台には出てこないのですが、狩野永徳の再来といわれ
た狩野探幽や江戸中期の円山応挙が等伯の画風に影響を受けたと言われています。
等伯の活躍した時代は一瞬でありましたが、新しい技法にチャレンジする姿勢と造形
的特質はその後の絵画史に長く足跡を残したといえるでしょう。